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7 鉋Q&A
 
日本語が話せる外国人に、通じない貴方の日本語?
こんにちは。今日は、「どうして日本人は英語が苦手なのか?」というテーマを一緒に考えてみましょう。
多くの人が「日本人は英語が話せない」と感じていますよね。英語の授業も、今では小学校から始まるようになりました。でも、それで本当に英語が話せるようになったのでしょうか?
実は、ここにとても大切な“見落とし”があるんです。
 英語の前に、日本語の「音」を学んでいますか?
私たちは、外国語の音を聞いたり、まねしたりするためには、まず自分たちの「日本語の音」を正しく聞き分け、話せることが大切です。
たとえば、日本語には「雨(あめ)」と「飴(あめ)」のように、同じ音でも意味が違う言葉があります。これは、アクセントの違いで区別しています。でも、学校でそうした発音やリズムの学びって、ちゃんとありましたか?
残念ながら、ほとんどの人が発音について、深く教わる機会がないまま育っています。
 カタカナ語って、本当に英語ですか?
さらにやっかいなのが「カタカナ語」です。
たとえば、「バスケットボール」「サラリーマン」「コンセント」…これ、英語っぽく聞こえますよね。でも、英語圏で「コンセント(consent)」と言えば、「同意する」という全く違う意味になります。
つまり、日本で使われているカタカナ英語は、“和製英語”。本来の発音とは、かけ離れてしまっているんです。
カタカナの表記が先にあると、私たちはその“音”に引っ張られてしまい、本来の英語の音が聞き取れなくなってしまいます。
小学校で、こんなことから始めてみませんか?
では、どうすればいいのでしょうか?
英語教育を始める前に、こんな授業を取り入れてみるのはどうでしょう?
正しい「日本語の音」を学ぶ授業
アクセントの違い(「橋/箸/端」など)
母音や子音の発音の仕方(ア・イ・ウ・エ・オの口の形)
言葉のリズムや「間」の大切さ(文章のテンポや聞き取りやすさ)
カタカナ語の「本当の意味」を学ぶ授業
「サラリーマン」って海外では通じない?
「アイスコーヒー」と「アイスティー」は英語でどう言う?
「チャンス」や「マネージャー」の発音って、英語ではどう聞こえる?
「音まね」「リズム遊び」で耳を育てる授業
英語の絵本を聞いて、声に出して読んでみる
まねっこシャドーイングで、ネイティブの音感覚を育てる
童話や日本の詩を、美しく朗読する練習
英語は、そのあとでいいんです
「正しい日本語の音を知っていること」
「自分の声に耳をすませること」
これは、外国語を学ぶための大切な“耳の準備体操”です。
急いでアルファベットを覚えるより、まずは自分の言葉を美しく、正しく話せるようになること。それが、英語への“第一歩”になるのです。
最後に
「英語を学ぶ前に、日本語の音を学ぶことが大切です」
これは、言葉の“根っこ”を育てる考え方です。
小学校での英語教育を本当に実りあるものにするためには、
まず「聞く力」「まねる力」「音を感じる耳」を育てる環境を整えることが欠かせません。

そしてそれは、「英語が話せる日本人」への近道でもあるのです。

 道具屋が未来を語る?
 「構造と内装の分離が、鉋に光を当てる時代がやってきます。」
現代の住宅づくりは、宇宙居住に向けた技術の進化とともに、新たな価値観へと移行しつつあります。
宇宙空間では「気密性」「軽量性」「耐圧性」が重要なため、住空間はシンプルかつ強固なユニット構造として設計されます。
この考え方が地球に戻ると、プレハブ住宅やトレーラーハウスのように「構造(箱)」と「内装(暮らしの表現)」を分けて考える住宅スタイルへとつながります。
つまり、建物の骨組みは工場で効率よくつくられ、内装は暮らす人の感性で後から自由に仕上げるという時代がやってきます。
これは、日本の伝統的な木造軸組工法――柱や梁そのものが空間を形づくる――とは異なる新しい発想です。
内装職人の手仕事と、鉋の価値が再評価されるとき
内装が「暮らしの表現」として重視されるようになると、床、壁、天井、家具、建具――
住まいのあらゆる面に仕上げの技術が求められるようになります。
そして、未来社会ほど人工素材に囲まれ、「本物の木の肌に触れたい」という欲求は強くなるもの。
そんなとき、木を仕上げるための道具、つまり鉋(かんな)の役割は、これまで以上に繊細で感性的なものになります。
求められるのは、大きな構造材を仕上げる鉋ではなく、
軽量・小型で、面取りや曲線にも対応できる「内装仕上げ用の鉋」です。
それはまさに、「住む人の内面に触れる仕上げ」を担う道具です。
「見せる内装の技術」が職人と道具を進化させる
これまでのような「構造のための見えない技術」から、
これからは「暮らしのなかで見せる技術」へ。
たとえばヨーロッパでは、石やレンガで組まれた家に対し、
内装こそが空間芸術とされ、仕上げ職人たちが文化を支えています。
床職人・造作家具職人・壁面仕上げ職人などが分業し、
それぞれの手道具に深い誇りを持っています。
日本でも、「見せる内装」が増えていけば、鉋という道具にも
新たな需要とリスペクトが育まれていくはずです。
 道具屋としての希望と提案
道具とは、時代とともに使われ方や求められ方が変わるものです。
ですが、その本質――「手と素材をつなぎ、人の感性に触れるもの」――は変わりません。
未来の暮らしが変わる今こそ、鉋の新しい姿を見つけ、伝えていく。
それが、私たち道具屋の役割であり、希望だと考えています。
 
 今始まったことではない不思議?
 
 刃は一枚。だが、それに応じる台は幾丁にも及ぶ。
木の癖、湿度、仕上げの違い。それぞれに最適な仕込みを施し、用途に応じて使い分ける。
これぞ、職人が道具と対話してきた証ではないか。
替刃式鉋に至っては、刃を研ぐ手間すら要せず、台を入れ替えれば、まさに一生を通して使い続けることも可能な仕組みである。
にもかかわらず、今、鍛造鉋であれ替刃式であれ――
その台の仕込みを求める声は、ほとんど聞かれぬ。これはどうしたことか。
理屈で考えれば、これは「使い捨て」である。
かつて道具を育て、道具と生きた職人たちの姿は、今やどこへ消えたのか。
ここで、私は問う。
鉋を手にする職人諸君。君たちは、本当にその道具を「使って」いるのか?
それとも、「使い捨てて」いるのか――。
 
 匠の技などと言われて?
 たとえば、鉋本体が2万円で売られているのに、台の仕込みを頼むと1万1千円かかる。
多くの人は、「じゃあ新品を買えばいい」と思うでしょう。
理屈としては正しい。でも、そこに「文化」は残るでしょうか。
最近、テレビで国宝・姫路城の修復現場が報道されていました。
技術者がいない業者が落札し、修復にあたっているという話。
入札で重視されたのは、技術力ではなく価格。
文化財ですら「いかに安く済むか」が優先されているのです。
技術は今、「費用対効果」でしか測られなくなってきている。
これは、私たちの道具の世界でも同じことが起きています。
だから私は考えました。
鉋台の仕込みを自分でできる「鉋キット」を5,000円で提供できないかと。
仕込むことで、自分の道具にする。
価格と体験のバランスを取り戻すための、ささやかな提案です。
「安いから買う」のではなく、「育てて使う」。
そこに、本来の技術の価値が宿るのだと、私は信じています。
 
 職人とは
 未だ、是秀の鉋や金四郎の毛引などを探し求めている人がいるようです。「世間の評判」に流されるのではなく、
自らの目と手で確かめる力を、もう一度持ってほしいという願いです。
世の中には、本物の良さを見分けることが難しい人が多くなりました。
また、「これが評判の道具だ」「あの人が使っているから」というだけで、
性能を比較検証せずに受け入れてしまう風潮も強くなっています。
だからこそ、
職人には、評判やブランドに頼るのではなく、
自分の目で見て、触れて、確かめる工夫と努力を持っていただきたいのです。
昔を懐かしんで「昔は良かった」と語るだけでは、
技術は、そこで止まってしまいます。
昭和が終わり、平成を越え、令和の時代になりました。
この日本は、学問による探求を重ね、ロケットを飛ばし、深海に潜り、
宇宙にも挑戦する国になりました。
それでも、未だに「ロケット開発は職人技だ」と口にする場面を見かけます。
しかし本当は、「技」というものは常に変化し、
進歩し続けるものではないでしょうか。
「手作業か、機械か」
「伝統か、革新か」
そんな単純な二元論ではなく、
手と頭と心を使って、常に学び、改良し続けること。
それこそが、「職人技」の本当の姿だと、私は信じています。
鉋ひとつ、刃物ひとつ、
昔ながらの良さを尊重しながら、
今という時代に合った新しい工夫を重ねる。
それが、これからの職人に求められる「生きた技術」だと思うのです。

今日も道具を見つめながら、そんなことを考えています。
 
 工芸品と芸術品をは同じでは無いのでは。
 おっしゃる通り、「工芸品」と「芸術品」は同じではなく、両者には本質的な違いがあります。以下のように整理できます:
工芸品(Craft / Craftwork)
実用性を持つ美が前提。
日常生活での使用に耐える「機能」を持つ。
技術・素材・伝統の蓄積が重視される。
作り手の技術力や仕立てに重きが置かれる。
日本では「用の美」という言葉に象徴される考え方。
 芸術品(Art / Artwork)
表現性・観念性が主。
実用的である必要はない(むしろ非実用的なものが多い)。
作者の思想・感性・メッセージが重視される。
鑑賞・思索の対象であり、唯一性や投資対象としての側面も強い。
 マイケル・ウォーカー(Michael Walker)作のナイフは?
マイケル・ウォーカーは「タクティカル・アートナイフ」の先駆者であり、彼の作品は明らかに工芸品と芸術品の境界を越えていると言えます。
ナイフという機能的な道具(=工芸品)でありながら、
その装飾、構成、素材、形態には審美的価値や作者の意図が込められており、
美術館に収蔵されることもある(=芸術品の領域)
つまり、ウォーカーの作品は「工芸と芸術の融合」、あるいは「美術工芸」の最たる例です。実用性を超えた存在となったとき、それは芸術品として評価され、投資対象にもなるということです。
このような境界領域の存在が、現代の工芸における可能性の広がりでもあります。
ご質問の背景には、現在の鉋や伝統的道具に「芸術的な視点」を加える可能性もあるように思いますが.
 
 鉋の価値とは
 裸の王様の物語のように、真実は見えていても、誰も口に出さないことがある。
ゴッホのように、生前に評価されず、死後に「名作」とされる作品がある。
歴史上の人物も、事実よりも物語が優先され、人々はその「作られた像」に価値を感じてきた。
是秀の鉋、碓井健吾の鉋。
職人たちはそれを「理想」だと讃える。だが、その理想は本当に技術的な真理から来ているのか。
あるいは、「価値がある」と言われているものにすがることで、自分の道具選びの責任を放棄しているのではないか。
オークションで釣り上げられる絵画の値段のように、
誰かが「素晴らしい」と言えば、皆がそれに従う。
実際に手に取って削ったのか? その性能を自分の言葉で語れるのか?
それとも、「是秀の鉋だから良い」「碓井の名がついているから素晴らしい」と、名前だけにひれ伏しているのか。
空腹が何よりの調味料であるように、
本当に必要な道具は、名よりも実。
職人が道具に対して抱く「理想」が、もしもその道具のブランドや過去の名声に基づくものでしかないのなら、
それは理想ではなく、ただの欲望だ。
神もAIも、もともと人の役に立つものとして作られた。
だがその力が本来の目的から外れて使われるとき、人を傷つける存在にもなる。
鉋という道具も同じだ。
本来は「木を削るための道具」に過ぎないものに、過剰な信仰や幻想を重ねていないだろうか。
もし職人が「この鉋でなければ」という執着に囚われているのなら、
それは、道具ではなく自己の不安を埋めるための偶像に過ぎない。
鉋の理想とは、使い手が「木を削る」という目的を忘れず、常に自らに問いを返す、その姿勢の中にしかない。
 
 「技」って、何だろう。
 金四郎の鎌毛引き。
使いやすいと多くの職人が口をそろえる。
けれども――
最後のネジを締めたとき、わずかに竿が動く。
その欠点を知っていながら、改良しようとしない。
数年前、竿にマグネットを埋め込むだけで動きが止まると伝えた。
それでも今も、誰もそれを試そうとはしない。
なぜだろう?
不便なままでも「慣れれば使える」、
そんな言葉で片づけてしまっていないだろうか。
「これが技だ」と言う前に、「これが本当に最善か?」と問い直すべきではないか。
「技」は、ただ受け継ぐものではない。
不満を声にすること、違和感を見逃さないこと。
それこそが「作る側」を動かし、「道具」を進化させる。
そして進化した道具が、また新しい「技」を生む。

それが本当の“技の継承”であり、“技の進展”ではないだろうか。
 
 職人技
 言葉の構造と意味
「難しいと媚びること」
「難しい」と言うこと自体が、知識や技術の差を認めているように見えるが、
実際には「あなたはすごい」「私には無理」というポーズで、相手を持ち上げている。
真剣に理解しようとせず、困難を理由に思考停止してしまっている。
「指導者へのへつらい」
これは本当の尊敬や敬意ではなく、「すごいですね」「私にはとても真似できません」と言って、指導者の気分を良くするための言動。
指導の本質(相手に理解させる、成長を促す)から目をそらす行為とも言える。
含まれる批判的視点
この言葉には、「学ぶ側の姿勢」に対する鋭い批判が込められています。
難しいと口にすることで、自分の理解不足や努力の不足を覆い隠す。
指導者の言うことを鵜呑みにすることで、自分で考えることを放棄する。
「へつらい」は、学びの場を対等な成長の場から、上下関係だけの場にしてしまう。
 教育・伝統技術の現場において
特に職人の世界や伝統技術の場では、「わかったふり」「できないふり」が礼儀とされることもある反面、それが教育の本質を損なうこともある、という問題意識を示しているように感じられます。
この言葉は、学ぶ側に「本当に理解したいのか」「自分の言葉で考えているのか」という問いを突きつけ、また指導者にも「おだてられて満足していないか」と自問を促すものです。

刃物研ぎ指導の場面での?
 
 余命18年で100才の独り言
 鉋を使う人々(プロもアマも)が「鉋は難しい」と口にするのは、ある意味で免罪符のようなものです。
つまり、「難しいのだからできなくて当然」「すぐにできるものではない」と言うことで、自らの努力不足や無関心を正当化している。
それは学ぶ姿勢というよりも、「学ばないことの理由づけ」であり、ある種の防衛反応です。
「誰でも削れる鉋」に無関心な理由
本当に鉋に関心があるならば、「誰でも削れる鉋」には飛びついてくるはずです。
それを見て、「こんなふうに簡単に削れるのか!」と驚き、感動し、道具への視線が変わるはず。
でも実際には視聴回数が伸びない。それはつまり、「できるようになりたい」という願望が本気ではないという事実の表れでもあるかもしれません。
へつらいと自己満足
多くの人が「鉋は難しい」と言うのは、指導者や伝統、あるいは道具そのものに対する「へつらい」であり、自分が努力しないことを正当化するための言葉にすぎない。
一方で、鉋をうまく使えることを「職人らしさ」や「こだわりの証」として自分のブランドにしようとする木工家もいますが、そういう人ほど新しい仕組みに目を向けないこともあります。
つまり、「伝統に倣うふり」をして、本質的な技術や理解ではなく、外形だけをなぞる自己満足の世界に閉じてしまっている。
人は「難しい」ものに惹かれながらも、「本当に変えるもの」には怖れを感じる傾向があります。
技術革新(例:誰でも削れる鉋)は、使う人の姿勢を問います。「自分のやり方でいい」と思っている人にとっては、逆に邪魔に見えるのです。
本質的に「道具の使い方を変えたい」「技を広めたい」という視点に立つ人は少なく、伝統の「空気」だけを守ろうとする人が多い中、試作をし、公開する行動こそが、「伝統の本質を未来へつなぐ」行為だと私は思います。視聴回数に表れない反応の中に、真の価値があるかもしれません。