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包春 素人みたいなことをするな
 
「職人は、素人みたいなことをするな」

この言葉は、本来技術・責任・誇り・心構えを戒める、重みのある言葉として語られてきました。一定の品質を保て。経験に裏打ちされた判断をせよ。細部に妥協するな。仕事に真摯であれ。理屈としては、正しい。誰も異論はないでしょう。しかし、現実の職人の世界で、この言葉がどう使われているかを見れば、そこには別の意味が見えてきます。多くの場合、この言葉は「考えろ」という意味では使われていません。「疑うな」「はみ出すな」「余計なことをするな」そうした、同調圧力の言い換えとして使われています。現実の職人の多くは、品質や構造や合理性ではなく、知名度・銘・系譜・評価の既存枠に寄り添うことで「プロらしさ」を担保しようとします。有名な道具を使っているか名の通ったやり方を踏襲しているか周囲と同じ印を持っているかそれらが、あたかも「同じレベルに達している証」であるかのように扱われてしまっている。つまり、「素人みたいなことをするな」とは、自分で考えるな既に評価されたものから外れるなという意味に、すり替わってしまっているのです。本来、長年の経験と専門知識に基づく判断とは、既存の正解をなぞることではありません。経験とは、「なぜ、そうなっているか」を自分の頭で理解し続けた時間のはずです。しかし現実には、理解よりも先に帰属と安心が優先されている。その結果、新しく考案された道具を前にしても、なぜこの構造なのか何を解決しようとしているのかを考える前に、「前例がない」「誰が認めたのか」「どの職人が使っているのか」そうした外部評価を探しに行ってしまう。それは、誇りでも、責任でも、職人気質でもありません。ただの 依存 です。本当に「素人みたいなこと」とは何でしょうか。それは、分からないものを分からないままにし、考えず、構造を見ず、名前や評判だけで価値を判断することです。それは、むしろ思考を放棄した態度であり、技術者として最も遠ざかるべき姿です。職人とは、同じ道具を使う人間ではありません。同じ問いを持ち続ける人間です。問いを失い、印を集めることに安心しはじめたとき、その瞬間から「素人みたいな仕事」は始まっています。「素人みたいなことをするな」とは、本来こういう意味だったはずです。考えることを、やめるな。名前に寄りかかるな。構造から、価値を読み取れ。それができなくなったとき、どれほど経験を積んでいても、どれほど道具が揃っていても、その姿は、職人とは呼べません。

台直し鉋がうまく削れない本当の原因 
 台直しの出来・不出来は、下端の当たり方だけで決まるものではありません。いちばん大事なのは、鉋を押している手の位置と、刃の位置の関係です。台直し鉋の刃が長すぎると、自然と手は刃を避け、鉋台の後ろのほうを握ることになります。すると手で押している位置実際に削っている刃の位置この二つが大きく離れてしまいます。この状態では、鉋を「押している」つもりでも、刃のところには十分な力が伝わりません。刃は木に食い込まず、削っているのではなく、表面をこすっているだけの状態になります。極端な話をすれば、もし台直し鉋の刃が短く、鉋台と平行に仕込まれていれば、刃の真上に手のひらを置いて押すことができます。そうすれば、押した力はそのまま刃に伝わり、余計な力を使わなくても、自然に削れます。つまり、台直しがうまくいかない原因は、技量や力不足ではなく、刃が長すぎて、正しい押し方ができない構造にあります。台尻を強く握って台直しをしているとき、それは「削り」ではありません。刃に力が届かず、擦っているだけです。台直し鉋は、刃の位置刃の長さ握ったときに、刃の上に力を乗せられるかこれらが揃って、はじめて正しく機能します。まとめ(核心)台直し鉋の刃が長すぎると、手の力が刃に届かず、削りではなく擦りになる。

 
希少性は人気が出れば増える
 かつて養殖は、「安価に供給するための手段」として位置づけられていた。
 天然資源の不足を補い、価格を下げ、安定供給を実現することが最大の目的であり、餌や育成方法も「コスト基準」で最適化されてきた。しかし現代の養殖は、その前提を大きく変えつつある。現在の養殖は、価格ではなく味や品質を主目的として設計されている。その結果、四国・四万十川の天然鰻よりも、管理された環境で育てられた養殖鰻の方が「美味しい」と評価される場面すら生まれている。ここで重要なのは、養殖=安価という価値観が、養殖=高品質・高付加価値へと転換している点である。
この構造は、「手造り」と「工業製品」の関係にも通じている。工業製品は、少量生産の段階では高価である。しかし量産が進むにつれて価格は下がり、同時に品質も安定し、さらに改良が加えられていく。消費者から「良い」と評価されれば、その評価は技術開発へと還元され、より使いやすく、より高品質で、より安価な製品へと進化していく。これが量産品の基本的な発展の流れである。一方、手造りの製品は、まったく異なる道をたどる。手造りは本質的に高価であり、人気が出れば出るほど価格はさらに上昇する。しかしその価格上昇は、必ずしも品質の安定や向上を意味しない。むしろ個体差を含んだまま、希少性そのものが価値として強調されていく。その結果、手造りは品質ではなく再現性でもなく技術の共有でもな「希少であること」によって市場に残る構造を持つ。歴史を振り返れば、この違いは明確である。消費者の評価が技術開発に還元されるものは、進化し、広がり、社会に根づく。一方で、希少性だけに依存したものは、希少性を失った瞬間に、急速に衰退する。つまり、量産品は「評価されることで進化する」手造りは「評価されることで固定化される」この違いが、両者の運命を分けてきたのである。まとめの一文(強い軸)技術が社会に残るかどうかを決めるのは、「人の手」か「機械」かではない。評価が、次の改良へと循環する構造を持っているかどうかであります。

 
 鉋の未来
 鉋は、人の手で使われる道具である。しかし同時に、鉋は「人の感覚」だけで成立してきた道具ではない。台の形、刃の鋼、裏金の構造、仕込み角度。それらはすべて、無数の試行錯誤と改善の積み重ねによって、少しずつ洗練されてきた。つまり鉋は、本来進化し続ける技術体系だった。それにもかかわらず、いつの頃からか、鉋は「完成された伝統」として語られるようになった。調整が難しいこと。使いこなせる人が限られていること。個体差が大きいこと。それらが、欠点ではなく「味」や「奥深さ」として評価されるようになったとき、鉋の技術は、静かに立ち止まった。工業製品は違う。不便だと評価されれば、改良される。扱いにくいと言われれば、設計が見直される。その評価は次の製品に反映され、より多くの人に届く形へと変化していく。一方、鉋を含む多くの伝統工芸は、「使いにくいこと」そのものが価値として固定化されていった。それは、職人の誇りを守るためだったのかもしれない。しかし同時に、技術が社会に還元される回路を、自ら閉じてしまった可能性もある。本来、鉋はもっと自由でよいはずだ。誰でも削れてもいい。調整に玄翁を使わなくてもいい。構造が変わっても、鉋であることに違いはない。削れるという結果が同じなら、そこに至る道は一つである必要はない。鉋の未来を考えるとは、過去を守ることではなく、評価が次の改良へとつながる構造を、もう一度取り戻すことなのかもしれない。
 
手造り信仰 
 手造りへの静かな問題提起「人の手」は、価値の保証ではない「手造り」という言葉には、不思議な力がある。それだけで、温かく、誠実で、価値が高いもののように感じられる。しかし本当にそうだろうか。人の手で作られたものは、確かに一点ものだ。だが一点ものであることと、優れていることは、同義ではない。再現できないということは、裏を返せば、改善が共有されないということでもある。手造りの品は、人気が出ると高価になる。しかしその価格上昇は、技術の進化ではなく、希少性によって支えられることが多い。数が作れない。作り手が限られている。真似できない。その結果、「良いから高い」のではなく、「少ないから高い」という評価構造が生まれる。そしていつしか、技術は磨かれるのではなく、固定される。一方で、工業製品は冷たいものだと見なされがちだ。しかし工業製品は、評価されなければ生き残れない。使いにくければ淘汰され、良ければ次の改良へと進む。その循環の中で、人の知恵は、個人の中に留まらず、社会に蓄積されていく。歴史が示しているのは、残酷だが明確な事実である。希少性に守られた技術は、希少性を失った瞬間に消える。一方で、改善され、共有され、更新され続けた技術だけが、形を変えながら生き残ってきた。「手造り」は否定されるべきものではない。しかし、無条件に崇拝されるべきものでもない。問うべきなのは、それが次の改良へとつながる構造を持っているかどうかだ。人の手は、価値の出発点にはなり得る。だが、価値の保証にはならない。

 
鉋は物語では削れない 
 
国宝の鉋は、よく削れる。そう信じられている。何百年も前の道具。名工の名。限られた数。語り継がれる逸話。それらが重なり合うことで、鉋はいつの間にか「物語の中の存在」になる。だが、鉋は物語ではない。削る道具である。漫画やアニメの世界では、伝説の武器は、それを持つだけで力を発揮する。修行は象徴化され、構造は語られず、理由は省略される。その感覚を、私たちは無意識のうちに、現実の道具にも重ねてしまってはいないだろうか。古いから良い。希少だから優れている。名があるから間違いない。それは、世界の見方としては分かりやすいが、現実の道具の理解としては、あまりに危うい。鉋が削れる理由は、物語ではなく、構造にある。刃の質。裏の処理。台との関係。調整機構。使い手とのインターフェース。それらが合理的に組み合わさったとき、初めて「削れる」という結果が生まれる。にもかかわらず、調整が難しいことが「深さ」とされ、扱えないことが「修行」と呼ばれ、再現できないことが「価値」へとすり替わっていく。ここで、鉋は道具であることをやめ、信仰の対象になる。替刃式鉋や、調整を必要としない鉋は、しばしば「邪道」と呼ばれる。しかしそれは、削れないからではない。むしろよく削れる。拒まれる理由は別にある。それは、物語が成立しなくなるからだ。玄翁を叩かなくてもいい。勘に頼らなくてもいい。誰が使っても、同じ結果が出る。そこには、修行の物語も、選ばれた者の特権も、神話化する余地もない。残るのは、「削れるか、削れないか」ただそれだけだ。技術とは、本来そういうものだった。評価されれば改良され、改良されれば共有され、共有されれば広がる。工業製品が歩んできた道であり、養殖技術が「安価」から「美味」へと転じた理由でもある。そこでは、希少性は目的ではなく、品質は隠されるものでもない。手作りが悪いわけではない。国宝が無意味なわけでもない。物語が人の心を動かすことも否定しない。だが、それらは現実の道具評価とは別の次元にある。鉋は、鑑賞物ではなく、信仰対象でもなく、物語の象徴でもない。削るための、技術の集合体である。もし、誰でも削れる鉋が存在したら。調整を学ばなくても、薄く削れたら。構造が公開され、改良が共有されたら。それでもなお、それを「鉋ではない」と言うだろうか。それとも、鉋を物語から取り戻すことを、私たちはどこかで恐れているのだろうか。余韻としての一文道具は、信じることで削れるのではない。削れる構造を、正しく理解したときにだけ、削れる。

 
料理は手造りに向かない
 工学的再現性を必要とする技術はない
 砂糖小さじ何杯、味醂何グラムという記述は、すでに感覚ではなく数値による制御=工学である。そして現在、B料理(B級グルメ)の人気が、その事実を雄弁に物語っている。つまり包春は、料理は感性の世界ではなく。本質的には 配合・温度・時間・再現性の技術にもかかわらず「手作り」「愛情」という物語で語られすぎていると指摘しているわけです。
             「料理ほど手作りに向かない」という意味の分解
料理は、微量で味が激変する、再現性がないと評価が安定しない、人によるブレがそのまま欠点になる、つまり、人の感覚が前面に出るほど、失敗確率が上がる技術です。他の工芸では多少の個体差が「味」になりますが、料理では不味さになります。
               レシピはすでに工学文書である
包春例、砂糖 小さじ1、味醂 10gこれは完全に、分量管理、比率設計、再現性確保、つまり調味の工学化です。「目分量」「勘」は、初心者の入口にはなっても、完成形ではありません。プロの料理ほど、グラム、秒、温度、火力
で語られます。
             B料理(B級グルメ)が示している現代的価値
B料理の多くは、高級素材を使わない、誰でも同じ味を期待する、どこで食べても外さない、つまり、手作り感よりも「外れない工学」を評価しているということです。チェーン店、屋台、定番メニュー、が支持されるのは、「職人の感性」よりシステムとしての味が信頼されているからです。
 「愛情」や「手作り神話」への静かな反転
料理における「手作り信仰」は、物語としては美しい、家庭文化としては重要
しかし技術として見るなら、
            料理は、最も感情を排して設計されるべき分野
とも言えます。だからこそ、工場で作ったタレ、冷凍技術、セントラルキッチンが、「家庭の味」を超える場面が増えている。これは劣化ではなく、
進化です。
             鉋・工芸との思想的接続(包春の文脈)
ここで、包春のこれまでの議論とつながります。
分野
 
評価されるもの
 
料理
 
再現性・安定性
 
工業製品
 
改良・共有
 
鉋(あなたの思想)
 
誰でも削れる結果
 
つまり、技術は
「誰でも同じ結果が出る方向」に進化する料理だけが例外であるはずがない。料理ほど、「手作り」が神話化され、実際には最も工学に依存している技術はない。B料理の人気とは、味の物語ではなく、味の再現性が評価されている証拠である。 私たちは、「手で作られたもの」と「安定して美味しいもの」を
無意識に混同していないだろうか。
 
 
 手作りという神話を、技術から考える 
料理ほど、手作りに向かない技術はない
 料理は、しばしば「手作り」の象徴として語られる。愛情、感覚、勘、家庭の味。しかし技術として料理を見ると、それはまったく別の姿をしている。砂糖は小さじ何杯か。味醂は何グラムか。火加減は何度で、何秒か。これは感性ではなく、数値による制御である。料理は本質的に、再現性を前提とした工学的技術だ。B料理が示している、現代の評価軸現在、B料理(B級グルメ)が広く支持されている。高級素材でも、職人の個性でもない。評価されているのは、「どこで食べても外れない味」「誰が作っても同じ結果になること」。つまり、手作り感よりも、安定した技術である。これは料理が劣化したのではない。料理が、技術として成熟した結果だ。工芸における「手作り信仰」一方、工芸の世界ではどうだろうか。手で作られていること。数が少ないこと。作り手が限られていること。それらはしばしば、品質や性能とは別の次元で価値として語られる。だが「手作り」であることは、必ずしも「良い結果が出ること」を保証しない。鉋は、料理と同じ技術である鉋もまた、削れるか、削れないか。結果がすべての道具である。削れない理由は、精神性でも、修行でも、物語でもない。刃が動かないこと。力が正しく流れること。構造が結果を支えていること。これは料理と同じく、再現性の技術である。角度や勘ではなく、構造で削る鉋へ本展示で紹介する鉋は、調整の勘を必要としない。叩かなくても、削れる。それは「簡単にした」のではない。削る結果に不要な要素を、構造から取り除いたのである。料理が「誰でも美味しく作れる方向」に進化したように、鉋もまた「誰が使っても削れる方向」へ進化できる。技術とは、物語ではなく結果である手作りであるかどうか。希少であるかどうか。歴史があるかどうか。それらは価値の一部ではある。しかし技術の核心ではない。技術とは、結果が安定して再現できること。料理も、工芸も、鉋も、その原則から逃れることはできない。結び(来場者に残す問い)私たちは、「手で作られていること」と「良い結果が出ること」を同じものとして見ていないだろうか。

 
台湾地震での被災先の食事は袋麺ではなかった。 
 
台湾の地震被災地で提供される食事は、日本の避難所でよく見られる乾パンやアルファ化米といった冷たい非常食とは異なり、温かい食事が提供されることが大きな特徴です。 
「まさか袋入りラーメンではないでしょうね」とのことですが、実際には、地元飲食店や民間団体による炊き出し支援が活発で、被災後わずか数時間で温かい食事が届けられることもあります。 
具体的には、以下のような食事が提供されています。
温かいお弁当や中華料理: 地元の慈善団体やボランティア、飲食店などが連携し、肉や野菜をたっぷり使った栄養のある温かいお弁当や中華料理が迅速に提供されます。
米飯中心の食事: 台湾は日本と同様に米食文化であるため、コメを中心とした食事が提供されます。
多様なメニュー: 支援物資として、ルーローハン(魯肉飯)やシエンジョウ(鹹粥)など、台湾で日常的に食べられている家庭料理のレトルト食品が活用されることもあります。 
これは、「食は中華にあり」を象徴するように、温かく栄養価の高い食事を提供することで被災者の身体的・精神的な負担を軽減しようとする、台湾独自の相互扶助の姿勢や文化が反映されています。日本とは異なり、官製中心ではなく民間の活発な支援が特徴的です。 

 
「石流作」
 石が流れて木の葉が沈む
 日本は本当に「衰退」しているのか、円安・物価高と、私たちが見落としている視点―最近よく聞く言葉があります。「円安」「物価高」「日本の衰退」です。確かに、日々の生活を見れば、輸入品は高くなり、給料はなかなか上がらず、「昔より豊かさを感じにくい」と思う人は増えています。では、これは本当に日本がダメになったから起きていることなのでしょうか。ここで、少し視点を変えてみたいと思います。日本が「世界的に強かった時代」は、実は短い日本の歴史を長い目で見ると、日本が世界の中で軍事・工業・国家として突出していた時代は、それほど長くありません。おおまかに言えば、日清戦争から日露戦争そして太平洋戦争までおよそ 50年ほどです。この期間、日本は「国として戦争を遂行できる力」を急速に身につけました。鉄を作り、船を作り、武器を作り、国家として一気に近代化した。これは、世界史的に見ても非常に珍しいスピードです。では、なぜ「ずっと強かった」と思ってしまうのか理由は単純です。教科書テレビ、ドキュメンタリーこれらが主に扱ってきたのが、その50年間の成功体験だったからです。「追いつけ追い越せ」「技術立国」「ものづくり日本」これらはすべて、戦争と復興の文脈の中で成立した価値観です。プロジェクトXが再放送されている意味ここで、少しテレビの話をしましょう。最近、NHKで『プロジェクトX』が再放送されています。これは単なる懐かしさではありません。むしろ、こう問いかけているようにも見えます。「あの時代の開発は、いま、どれくらい続いていますか?」プロジェクトXが描いていたのは、根性論ではありません。何度も失敗しダメな状態を直視し現場で考え直すそうした設計のやり直しの物語でした。NHKは声高に「日本は衰退している」と言いません。ただ、過去の物語を、いまの時間帯で流している。それ自体が、とても静かなメッセージなのかもしれません。円安と物価高は「結果」であって「原因」ではない円安や物価高は、日本が突然ダメになったから起きたのではありません。もっと大きな流れで言えば、世界の価値基準が変わった技術の重心が変わった成長のモデルが変わったその中で、日本は「次の設計」をまだ見つけきれていない。それだけのことです。インスタントラーメンと、日本のこれから少し意外な例ですが、インスタントラーメンを思い出してみてください。あれは、「料理が下手でも食べられる食品」ではありません。下手であることを前提に設計された食品です。失敗を責めず、ダメな状態を受け入れ、そこから成立する形を作った。これは、かつての日本が得意としていた発想です。世界に伝えるべきことは、「強さ」ではないもし今、世界に伝えるべきことがあるとすれば、それは日本はずっと強かったではなく、日本は「短期間で設計を作り替えた国だった」という事実です。そして今、再び設計を作り替える時期に来ている。それを声高なスローガンではなく、静かな再放送という形で示しているのが、NHKなのかもしれません。衰退とは、終わりではない衰退とは、何もできなくなった状態ではありません。これまでのやり方が通用しなくなった状態ですそれは、次の発想が必要だという合図でもあります。